変態と呼ばれた新人看護師時代

わたしにも新人看護師時代があったわけですが、わたしは新人の頃からずっと看護師という仕事が楽しくて仕方なかったので周囲からは変人扱いされていました。

 

もちろん「辞めたい、辛い、わたしには無理だ」と思ったこともゼロではありませんがどんな負の感情よりも「やっぱりこの仕事好き」が勝るのです。

 

 

 

わたしがなぜこんなマインドで働いてこれたか一度よく考えて見ました。

 

 

 

まず第一に看護師になるまでがものすごく大変だったということがあります。

 

 

わたしの家庭の教育方針としては高校卒業以降は自分で好きな道を選びなさい。というスタイルでした。

 

 

大学に行くでも良い、就職するでも良い、専門学校でも良い、ただしその全てを自分の力で進んでいきなさい。

つまり金銭的援助は高校生で終了ということです。

 

 

もちろん高校時代に大金を貯められるはずもなく、入学金だけは祖父母からお祝いでいただき、それ以降の学費は奨学金やバイトのお金でやりくりすることになるわけです。

 

 

幼い頃から看護師になるのが夢だったわたしは大学か専門学校という二択になるわけですが迷わず専門学校を選びました。

大学なら4年かかるところを専門学校なら3年で済むし、公立の専門学校であれば学費も安い。

ということで実家を出て、一人暮らしをしながら奨学金とバイト代で3年間の看護学生時代を過ごすわけです。

 

これがもう大変大変。

 

 

毎日フル講を受けて、大量の課題をこなし、夜遅くまでバイトをして、帰ってから慣れない家事をする。実習期間は睡眠時間もほとんどなく、地獄の日々でした。

わたしが通っていた学校はとても田舎で、徒歩圏内のスーパーは1つだけ、しかも閉店は20時。コンビニは結構気合いを入れないと行けない遠さ。つまり翌日の学校に持って行くお昼ご飯は持参しなければ行けないということです。

昼休みにちょっとコンビニへ、なんてことはできないですし、近くにファストフード店など存在しない。そもそも店がないのです。

今日のお昼はソイジョイだけ、バナナだけという日が何度あったかわかりません。

 

 

そんな僻地の看護学校は古くからの風習が残り、独自のルールが色濃く残っていました。田舎独特の空気感、狭い世界。嫌いな人とも3年は付き合っていかなければいけない。

わたしにとって閉鎖的な看護学校の3年間が人生の中で一番辛い期間でした。

 

 

 

そんな辛い学校生活を乗り越えて、都会で看護師として働きだしたのです。

あんな経験までして得た資格を、この職を簡単には手放せません。

 

 

先輩に怒られた時や、ミスした時に考えるのです。

患者さんから理不尽に怒鳴られた時、もう無理だと投げ出したくなるような忙しさの夜勤の時考えるのです。

「辛いけど、学生時代とどっちが辛いかな」

 

今まで学生時代よりも辛かった仕事はありません。

思い出したくもないような辛い3年でしたが、確実にわたしを強く逞しくしてくれたあの環境に今では感謝しています。

あの3年を乗り越えた自分を誇りに思います。

 

 

辛いことをさらに辛い記憶で封じ込めるのは良いこととは思いませんが、「死ぬこと以外かすり傷」と誰かが言っていたように、大抵のことは「そんなこともあったな〜」と思える出来事にかわっていたのです。

 

 

ここで勘違いしてはいけないのは「死ぬこと以外」の死ぬことが本当に死ぬこと、Deathではないということです。

 

笑えなくなること、食べれなくなること、楽しいと思えなくなること、人によって違うと思いますが「自分らしく生きる」ということができなくなった時点で、その環境で頑張る理由はないと思います。

 

わたしはとても恵まれた環境で働けていたので、自分らしさを失わずにいられたのですが、みんながそうとは限りませんので自分にとって益だと思う方を選ぶべきだと思います。

 

 

なんだか語ってしまった。

 

 

まあ、こんなに楽しく働いていたわたしも職場を辞める時は相当病んでいんですけどね。

 

そんな病み看護師時代の話もいつか書こうかな。